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mike597

家族墓を考える場合

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家族墓を考える場合

古墳の被葬者が従来、男子と考えられていたが発掘作業が進むにしたがって相当数女性が存在した。最古の大前方後円墳箸墓が女性被葬者という伝承は、前期古墳時代までの古墳の副葬品から司祭者の性格が伺われ、女性首長が巫女王(ふじょおう)として祭祀権を握っていたという考え方があったが、首長としての重要な任務に祭祀があった点は女性が「情緒的性格」から霊媒としての資質に優れているという観念が先行してのものと思われる。ただ、後期古墳時代になると女性首長の数が急速に低下した。その原因が朝鮮半島における高句麗の南下に伴って中国南朝を背後に朝鮮各国との外交関係が活発になり、また、戦時体制で鉄資源の確保のためにも朝鮮への出兵など、軍事的比重が女性首長に影響したと考える樂善堂余近卿中學
ただ、関口裕子や溝口睦子の両氏は古代における女性首長の軍事指揮権や女性兵士の存在を主張している。しかし、中期の古墳副葬品の性差として女性の古墳からは馬具・甲冑の発掘が見られないことから、騎馬軍団から女性が排除されたと考えられている。
実戦部隊の兵士及び指揮官とし女性は体力的に不利だからと云うが、卑弥呼は最高指揮官として戦いの中で亡くなったといい、斉明女帝も最高指揮官として筑紫に赴いたという。
女性首長の存在は親族組織や婚姻の在り方と関係があるという。弥生中期には、周囲の土を削りだし、山や丘陵、尾根の上に造られた方形台状墓も現れ、中部地方・関東地方へ伝播したという。それが方形周溝墓で、特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったという。副葬品に着装品の有無や赤色顔料の使用の有無などから序列化ができあがっていたという。家族墓を考える場合、中国における共通の祖先祭祀は父子同気の観念で父系親族集団による家父長制女性は婚礼によって夫の集団に包摂されるが、日本の場合は8世紀でも父系親族概念は未成熟であったという通淋巴減肥
朝鮮半島や中国との接触で様々な大陸文化の影響を受け、5世紀を境に日本でも大王の場合、夫による妻の囲い込みが始まり、列島内で倭王の権威が強化され、6世紀頃各地の首長に血縁を基盤に共通の祖先を想定した氏を形成し、倭王から姓(かばね)を与えられ、大王に仕える仕組みが出来上がったが、天武朝以前の氏の構造で、父系による継承意識が弱く、男女双方の子孫に「官に有りては氏を命じ、土に因りて姓を賜う」と役割や根拠地によって親子でも名を異にするケースが多かった。蘇我氏同族でも兄弟叔父甥で桜井、境部、河辺、小墾田等の臣名を地名による個別の氏名で呼ばれ、蘇我と云う同祖集団で共通の祖先祭祀を祀りながら、各地に勢力を張る小集団に蟠踞していた。聖徳太子の子の泊瀬仲王が「我等が父子、並びに蘇我より出でたり」と母の氏を自らの氏と名乗る例もあり、その反対に有力な氏を中核に擬制的同族集団を形成する氏もあった智思中心
こうした氏の構造を義江明子氏は「両属的性格とは各個人が父系・母系双方の氏への帰属を認められるもので、個人を媒介とする無限のネットワークを一定の範囲で囲い込み、男女個人はおもに一つの氏の成員として大王に奉仕したが、父母双方の氏が個人を成員として認めることを可能にした」という。
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